「キャッチャー・イン・ザ・ライ」J・D・サリンジャー/村上春樹訳(白水社)



 うん、やっぱりホールデンとは気が合わんかった(笑)。というのが第一の感想です。思えば、初読の中学生のときには「これに共感するにはわたしはすでに大人になってしまったのだ」とまさにそんなこと思うお前がこどもじゃ的な生意気なことを思ったものですが、年齢的に必要以上に大人になってしまったいま再読しても、これはちょっと受けつけないなあと思った。わたしは昔からわたしだったのか。それとも単に好みの問題のような気がする。これが青春のピュアさとかイノセンスとかいうのは違うと思います。
 たしかにホールデンは、目の前に現れるインチキくさいもの、ずるいもの、頭の悪いものを、口を極めて罵ってゲロ吐きそうとという。しかしそういうホールデン本人にしたところで、嘘ばっかついて真面目に物事に取り組むことを拒否して、年齢を誤魔化して酒場に行って自分がバカにしてる女の子とデートする。インチキなものはどっちだ?という感じです。
 けれども、小説のキャラクターの造形が気に入らないということと小説の価値というものは別問題でして、この話がとてもすぐれた小説であることはやはり認めるしかないです。なんせこのホールデンがいけすかない人間であればあるほど、その情けないかれがふと目をとめる場面やつぶやきのひとつひとつが、読んでるこちらの胸に残るんだから。やっぱり回転木馬のシーンは良かった。雨が降ってたことまで、記憶どおりだった。
 だいたい10代の少年に無垢を求めるほうが間違ってるわけで。この小説をいわゆる「青春の書」として評価するのなら、まさにその年代の少年ならではの混乱と苛立ち、不安の現しかたこそが誠実なんだと思う。ぐるぐると迷い続ける一種のカオスのなかの年代。ある意味、非常に不快な己の陰との対話として、ホールデンは「きみ」と読者に呼びかけているのではないかな。
 で、わたしはこの絶望に訳者の村上春樹の匂いも感じずにはいられないのですが。いるかホテルの16階で待っている羊男みたいな。しかしそれは決して村上春樹が自分の好みに合わせてこの本の文章を訳したというわけではなく(確かにこのひとはとても陰に向かう心性の持ち主だと思いますが)、たまたま両者の持ち合わせたその部分が、うまくマッチングしたのでしょうけど。
 ホールデン自身が、自分の臆病さと不幸に十分に気づいている。その開き直りがまた余計にかれを幼く感じさせて、だからこそ、そんなかれをいまいち手放しで受け入れるとは言いがたいわたしは、本当に汚れた大人になってしまっているようです。重ねていいますが、こういうこどもは嫌いなんです。しかし、ホールデンのなかにある矛盾と不幸は、まさに16歳の心であって、それをここまで巧みに描きだして、なおかつ求心力を持たせているこの話は、やはりすぐれた小説であり、まさにここでしか読めないものであると思います。

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