「ハッピー・バースデイ」新井素子(角川文庫)


 間違いなく、新井素子、最高の恐怖小説です。わたしと同じ意味合いで、そう捉えるひとがこの世にどれだけいるかは疑問ですが、読んでいて、本を落としそうになりました。新井素子を「発狂した栗本薫」と評したのは今岡清だったと記憶していますが、その新井素子がそのまま「発狂した新井素子」になったとき、なにが起こるかを見てしまいました。なのに誰も気づいていない。そんなことってあるでしょうか。そんな気分です。

 新井素子は、いつでも「自分の」話しかできない作家だったと思います。それも私小説でなくエンタテイメントの枠内で、いつでも自分を主役に据えたお話を書き続けていた作家。彼女が10代のときは、それが同じ年代の少女の共感を呼び(「あたしの中の…」「絶句」等)、20代を迎えて結婚に至ったときも「結婚物語」で結婚適齢期の女子を楽しませ、30代を越えて、とうとうこどもを生む事がなかったときは、それを大作SF「チグリスとユーフラテス」のテーマに反映させた。主婦として働く夫をただ待ち続けるしかなかったときには「おしまいの日」を書きつつも、いつまでも、ぬいぐるみを抱えた少女の気持ちをなくすこともなかった(「くますけと一緒に」)などなど。そして、わたしはそれらの代表作をほとんど押さえて読んできたファンでありました。初めて自発的に現代作家のファンとなり、新作を待ち焦がれてお小遣いで文庫を買った作家は間違いなく、新井素子です。なのですが、気がつけば久しく読んでいないなあと手に取ったのが本書でした。そこでまさかこんなものを読むことになるなんて。

 久しぶりに読むと、「とにかく文体が新しかった。」と、新井素子の16歳の新人賞投稿作を手離しで褒め、まさにその文体を問題とした他の選考委員と真っ向から戦った星新一の慧眼は、本当にすごいと思いました。筒井康隆も小松左京も見抜けなかったいうのに。実際、新井素子以後(あるいは同時に)、一人称によるこの文体は世間を席巻したわけですが、それから30年近くたったいま、新井素子のユニークさが残ったような気がします。オリジナルはすたれない。年齢を経たぶんの目配りこそあれ、彼女の本質はなにも変わっていないのです。なによりこの、視点がランダムに移り変わり、神の視点が作者の視点へとすりかわるこの稀有な文体。ああ、うまく表現できないけれど、はるか昔の「物語」ならいざしらず、これをいまエンタテイメントとしての「小説」で、新井素子以外に書くひとはいるのか。

 初めて書いた小説がベストセラーとなり、有名になったものの、愛する夫と一緒に過ごす平凡な毎日にこそ生きがいを感じて幸せに暮らしていた女性作家。そこに、執拗な母親の干渉にストレスを溜めた浪人生の視線が絡み、悲劇が起こる―――という導入と、その結果、起こる偏執的な復讐劇と人生の転換自体は、もしかしたら、どうでもいいのかもしれません。そのストーリーだけでも、十分にホラーでありエンタテイメントとして愉しめるものなのだと思います。実際、ネットでの評判もサイコホラーとしての評価が高いみたいだし。それですませてくれてもいい。しかし、長年の新井素子ファンのわたしがなにより戦慄したのは、この主人公たる女性作家の造形そのもの。

 作者と登場人物を混合するのは、頭の悪い読み方であると思います。そんなに単純なわけでないと思います。しかし、新井素子に関しては、ええ、細かいディティールはいじれても、キャラクターの中心にいたる性格や心情についてはまったくぶれずに、自分自身を書き続けてきたこの作家に関してだけは、この女性作家の根本にある「書く」ということへの意味は、新井素子そのものであると思わずにはいられません。もちろん、これは新井素子が創作したキャラクターであるのだから、イコール彼女自身、なわけはない。なにもかも作り事、のはずです。なんでわたしがそんな当たり前のことを何回も繰り返しているかといいますと、怖いからです。たまらなく、怖い。もし、そうでなかった場合が、怖すぎる。これが、「書く」意味だなんて。彼女が「書く」意味としてたどりついた結果だなんて。

 この女性作家は「失敗した新井素子」なのかもしれません。「有り得た新井素子」なのかもしれません。「こんな風に書いたら、思ったより効果でちゃったなあ」なんて、もとちゃんは思ってるのかもしれません。けれども、これまでだって、もとちゃんは素直に「フィクションです」と「おはなしをつくって」きたのです。そういうところにこそ無意識は立ち上がり、作家の抱える虚無が広がると思ってしまうのは過敏にすぎますか。わたしの読み間違いでも過大評価でもいい。でも、結果として、これはわたし個人にとって意味を持つ一級品のホラー小説となったわけです。

 そして実はいちばん怖いのは、2002年に出版されたこの本のあとは、ブラックキャットシリーズを一作書いた以外は、新井素子は、ごく短い作品かエッセイしか発表していないという事実だったりします。なにがあったのかは分かりません。ただ、新井素子に関しては、単純な「才能の枯渇」「人気の凋落」という事はありえないと思うのです。書き下ろし長編を執筆中とも聞きましたが、この次に現れる彼女の世界がもしあるのなら、それはどんな色を持つのでしょうか。わたしはそれをびくびくしながらも、待ち続けたいと思います。

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