「空気と世間」鴻上尚史(講談社現代新書)



 鴻上尚史氏といえば、劇作家及び文筆家として知られた存在です。これはそのかれが、いまの日本人のもつ「世間」と「空気」に関して、かれなりの解釈を通して、丁寧に紐解いていく本です。それは、これまでの著書(主に「ドンキホーテのピアス」などの時評にて)でもしばしば扱われてきたテーマであり、まさにいまの日本に対しての疑問点、その根本に触れるものだと思います。
 誰でも一度は「空気読めよ」と云われたり「自分は空気が読めてないんじゃないか」と不安になったり、あるいは、誰かのことを「あいつは空気が読めない奴だから」と云った経験が、一度はあるのではないでしょうか。それだけ慣れ親しんだ概念でありながら、学校で習うことはなく、実社会でもマニュアルを渡されるわけでない、むしろ、そんな決まりは無いようにされつつも、明らかに存在している「世間」や「空気」というもの。ひとは往々にして、それに過剰に怯え、簡単に負けてしまいます。そこで、そうならないために、その正体を解き明かそうと、著者は、自身が出合った具体的な体験をもとに、分かりやすい例をひとつひとつあげながら、その構造を説明していきます。
 「空気」という言葉がどこから成り立っていくかを考えるために、まずはその基となる「世間」という言葉について、歴史学者の安部謹也氏の文献を紹介しながらそれの持つルールと、それにひとがどう縛られているかを追求していきます。そしてそのうちに「世間」が中途半端に壊れたため、それが流動化して簡単に出現するようになったものが「空気」であるという結論にたどりついていく過程は、とてもスリリングで知的好奇心を刺激するものです。
 かつてのように「世間体」や「世間がどう見る」という言葉は使われなくなってきた若い世代でも「ここの空気、読めてる?」「空気を考えて行動しないと」という言葉は自然に受け入れているのではないでしょうか。そして、そこに居心地の悪さや息苦しさを感じつつも、どうしたらいいのか分からない人々に対しても、鴻上氏は、対処法を提案してくれています。具体的な内容に関しては、直接、本書をあたっていただきたいのですが、かなり、明快かつ分かりやすいものです。ですが、ある種の努力を必要とするものでもあります。しかし、その努力は、「世間」や「空気」の縛りから解放されるという「自由」を得るためには必要な代償だとわたしは感じました。といっても、けして劇的なやり方ではありません。むしろ緩やかに、その当人以外は気づかないような、自然な方法であると思います。その自然さこそが、自由なのだと感じました。
 身近な題材を基にしているため、とっつきやすく、また鴻上氏の文章も、「いじめ」に苦しんでいる中学生にまで届いてほしい、という意図もあって、とても分かりやすく読みやすいです。なによりも、この本は、読んでいるうちに、「ああ、そうなのか」という納得の気持ちを与えてくれます。少なくとも、わたしは、そうでした。自分が、社会生活のなかで苦労したときに見えていなかったもの、なんとなく見よう見まねで振舞ううちに、身につけてきたもの、そうすれば楽なんだけど一抹の居心地の悪さをどうしてもぬぐいきれなかったもの、それがわたしにとり「世間」であり「空気」でした。そして、その息苦しさから、一時のわたしを助けてくれたのは、ネットであったと思います。この本は、ネットの危険な面も指摘しつつ、そんなわたしがネットという場を通して得た体験を肯定的に受け入れる根拠も、与えてくれました。自分が曖昧に感じていたことを、明快に文章化される心地良さを感じました。
 「空気」や「世間」という言葉に傷ついたことがあるひと、また、それによって他人を傷つけたことがあるひと、それはおそらくひとりの人間のなかに混在しているものでないかとわたしは思います。そして、この概念から完全に自由な日本人はそういないはず。すべてのひとが「なるほど」と思うとはお約束できません。けれど、確かにこの世界にあるものについて、書かれたことを読むことは、ひとになにかの気づきを与えてくれるのではないでしょうか。とくに、いま傷ついている10代20代のひとに読んでほしいと思います。「空気」のもたらす膠着状態のなかで身動きが取れなくなっているひとに、そこから抜け出す一歩を踏み出すきっかけを与えてくれると思います。
 優れた一冊です。内容のみならず、読みやすい文体と薄さ、なおかつ新書ならではのお得な値段。ぜひ、一人でも多くの人に手にとって頂きたいと思います。

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