「転移」中島梓(朝日新聞出版)



 わたしは長い間、栗本薫/中島梓の信者だった。
 わたしの年代(1970年代生まれ)の女性オタクには、そんな人はゴロゴロといるだろうが、わたしもまた、小説道場を読んで自分も小説を書いてみたいと思ったり、「グイン・サーガ」の登場人物の運命に一喜一憂したり、ミステリや時代物など一般小説の面白さにページをめくる手ももどかしかったり、中島梓名義での評論における、難解な用語を用いているにも関わらず、しっかりと伝わってくる世界を把握する力にため息をついたり、友達と「終わりのないラブソング」を回し読みして、きゃーきゃー言ってたりした。
 しかし、わたしの中の「おわソン」は二葉が少年院を出るところで終わっている。しかしそれをいうなら、「グイン・サーガ」は、グインがケイロニアの王になるところで終わっているし、透に至っては、巽の死を知って自暴自棄になり島津の凄烈な行為による癒しをうけるところのまま、である。そう、わたしはいつしか「神」と崇めたひとの本を手に取らなくなっていった。たまに読んだとしても微妙に首をかしげることが増えてきた。そしてそのあたりで、ご本人のネットでの、なんというか、無防備極まりない、しかしとうてい受け入れることのできない発言の連続に、ため息をついた。そうやって「栗本先生」には、そっと心の奥底に埋めた瓶の中に鎮座して頂きつつも、現在のご自身の姿からはあいまいに目をそらしていた。完璧な人間などいない。でも十代の時に熱狂した相手には、そんな無理難題を求めてしまうのかもしれない。ただ、やりきれないのは、それほどまでに耽溺した相手だからこそ、その無防備な発言も、ある意味で納得いくことだと、変節でもなんでもなく、このひとは最初からそういうひとであったのだと納得できてしまうことが、ちょっと寂しかった。
 癌で亡くなったことを知ったときも、入退院を繰り返していたことは知っていたので、大きな衝撃は無かった。ただ、惜しかった、まだ書けたのではないかという気持ちと、もう書けなかっただろうという気持ちの狭間で、涙は流れることがないままにいつまでも揺れていた。
 晩年の文章がどういう状態だったのかは、かの公式サイト「神楽坂倶楽部」(これが開設された当初は、ネットで中島梓の文章がいくらでも読めるなんて!」と喜んだものだった。それがあんなことになろうとは)で、知っていたので、正直言って、闘病記は読むのを遠慮しておこうかと思っていた。17年前に乳がんになったときの「アマゾネスのように」は、発表当時に、とても興味深く読んだうえに、そこで書かれたご本人の姿勢に深く感じ入るものがあったのだが、それとて再読していないのは、いまの視点を持って読んだとすれば、とうてい、そんな無邪気に感じることはできないだろうと予感したからだった。けれど、それでも手に取った、今回のがん発病における最初の闘病記「ガン病棟のピーターラビット」は、恐れていたほどの文章の乱れもなく、また、以前の本人に傾倒していたものとしてはどうしてもこれがいちばんいたたまれない、井の中の蛙的視点も、そんなに気にならなかった。むしろどこか淡々として、静かな印象だったので、とうとう実質的に最後の一冊となった、まさに絶筆であるこの本、5月17日に昏睡状態に陥り、26日に永眠されている彼女の17日に記された最後の一文字までが収録されているこの本を読む気になったのだ。




 この本は、一度、退院したすい臓がんの転移が発見されてから、亡くなるまでの9ヶ月間の闘病日記、なのだけど、読んでいていちばん思ったのは、なにもこんな状態でそんなことしなくてもということだった。なぜこんなぎりぎりまでライブをするんだろう。キャパ25人の小さなライブハウスでのジャズライブとはいえ、それが体にかける負担は並大抵のものでないだろうに。一方で、小説を書くことも、もちろん続けている。経済的な必要性もあったようだが(「グインを書かなかったので今月はつらかった」等の言葉もある)、もっと書きたいという気持ちには、おそらくなんの嘘も無い。そういう箇所を読むと、本当に、もっと書かせてあげたかったと素直に思う。
 そして、食べ物。文中でも繰り返し言っているように、生涯にわたって摂食障害の気から抜けられなかった人らしく(ただ、わたしが思うに、ご自分で認識しているような拒食傾向よりは、明らかに過食傾向だとは思う)、常に、食べ物のことを意識して、そのことばかりを考えている印象を受けた。また、本当にぎりぎりまで家族の食事を作り続けていることにも驚いた。疼痛に唸って、マッサージを受けつつも、食事時には起き上がり、ハムステーキだのパンケーキだのキーマカレーなど作り続けている。けれど、わたしが「そんなこと」と思うものが、彼女と彼女の家族にとってはなにより大事なひとつの絆となるものだったのだろうし、そうやって、家族になにかを食べさせること、自分の料理を出すことが、このひとにとってはなによりのまさに「生きがい」であったことは想像に難くない。だからそれはいまさらどうこういうことではまったくないのだろう。けれど、美容院には行ったほうが良かったと思う…。あの長い髪のシャンプーとヘアダイを自分でして、乾くまで下着姿だったので調子が悪くなったとかいう記述を読んで哀しくなった。最後にグインのアニメ化の際の記者会見、プロのヘアメイクさんにしてもらった姿は、とてもよかったと思うから。
 そして、この最後の本でも、彼女は揺れている。あるときは、贅沢が好きで、綺麗な場所でおいしいものを食べること、VIPとして扱われること、夜遊びをすることが好きなんだ、と正直に告白しつつも、あるときは、もう、引きこもり、自分に優しい言葉だけをかけてくれるひとと接触していたい、おだやかな優しい日光のみがふりそそぐような世界にいたい、と言う。変わらないなあ、と思う。どんな状況に陥っても、彼女は変わらない。いつも夢のような、自分が愛されるだけの世界を求めていた。彼女自身の認識はおそらく違うと思うけれども、わたしには、彼女が自分の母親を評する言葉はそのまま彼女自身にも当てはまると思うのだ。ただ、それはそんな特殊なものでなく、十代の少女(少年ももしかしたら)であれば多かれ少なかれ感じるであろう、「わたしにここにいていいと誰か言ってください」という、自分のことを認めてもらうことへの切なる欲求だった、と思うのだけど。だから、時に非難される彼女の自慢も偉そうな物言いもすべて「だからわたしを認めて頂戴」ということだったのだろうなあと思う。世の人からみればもう十分に認められているような状況でも、しかし、彼女には足りなかった。だからこそ、小説よりも反応が直接に伝わる芝居の世界に行ったのだと思うのだけど、反応がダイレクトに伝わるということは、ネガティブな反応もまた同時に伝わるということ。小説であれば部数が減ったところで、そう目に見えるわけでもない。不景気のせいにできる。「読書離れ」のせいにできる。けれど、彼女がベストセラー作家としての勢いのままに乗り込んだ舞台はそうはいかなかった。自分ひとりではすまない、多くの人が関わる舞台で失敗するということは、彼女の自尊心をひどく傷つけたのでないかと思うのだ。だから、自分をにこにこと受け入れてくれるだけの観客に囲まれるようなライブを自分の人生の最後にできたことは、良かったんじゃないか、幸せだったんじゃないかと思う。それがどんなささやかなものだったとしても。だからこれも、いまさらどうこういうことではないこと、きっと。
 より最後のあたりに近づき、ミスタイプもそのままに綴られた、余命が何日というレベルでの日記は、やはり哀しい。ただ、意識を無くす最後の昏睡状態に陥る前日の、すでにパソコンも使えなくなった、ノートの走り書き。そのところどころ解読不明の文章のなかに繰り返される「夢」という言葉に、わたしは「魔都」の主人公の独白を思い出した。そのまま、夢の世界へと安らかに眠っていき、彼女の魔都へ、クリスタル・パレスへ、ノスフェラスの砂漠へ、どこまでも旅立っていけたのかもしれないと思った。最後の最後まで、書き続けた作家の最後を読ませてもらったと思った。
 十代のときのような熱狂や信心はすでにもう無くとも、やはり敬愛し続けていたし、時にその発言に失望することがあっても、むしろそのことによって、わたしは大事なことを教わったのかもしれない。神などいない。ひとりの人間に完璧を期待すること自体が間違っている。ただ、世に出た作品を楽しみ、浮世の憂さを一時でも忘却させてもらい、ときに「わたしの心を歌っている」と思う文章に、胸をときめかせいること。そんなことがいちばん大事なのではないか。物語の楽しさ。いちばん最初に彼女が教えてくれた「物語って本当に素晴らしいんだなあ!」というため息まじりの実感。それを忘れずにいれば、いいのではないだろうか。そして、たくさんの作家がいまでも同じことをしている。世界中の作家が、楽しい小説を、面白い小説を、悲しい小説を、忘れられない小説を、書いている。彼女はそのなかのひとり。80年代から90年代の日本で、たくさんの人を愉しませてくれた、優れた作家のひとり。ならば、わたしも最後に、彼女に短い感謝の言葉を述べて、彼女にお別れを言おうと思う。
 本当にありがとうございました。十代のときのわたしに、貴女の作品がなければ、わたしは本当にこの世でひとりぼっちだと思い込んだままでいたでしょう。心より安らかな眠りをお祈り申し上げます。

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