「橋」橋本治(文藝春秋)



  圧倒されました。
 橋本治というひとについては、感想を書くたびにここで紹介してているような気がするのですが、案外、知られてないひとである気がするので、また書きます。一言でいえば、小説、時評、古典の現代語訳、イラスト、美術評に至るまで、多才な人物です、そして、わたしの神のひとり。
 本当にいくらでも数え上げられる氏の功績のなかで、わたしにとって、いちばん大事なのは常に時評であったような気がします。一見まわりくどく饒舌な文体に圧倒されつつも、まるで目の前に著者がいて、ひとつひとつの事物をお茶でも飲みながら説明してくれているような、そんな錯覚に陥る言葉の奔流にいつも酔いました。それは押しつけでなく、むしろ「ここまであからさまに見えている問題点は、あえて口にしなくてもみんな分かってることじゃないかと私は思っている。でも、なんだか大騒ぎになっているのは、もしかして、みんな見えてないの?それはあなたにもつながる他人事なのに、それでいいの?」という感じに、目前にある問題を、ぐっとこちら側に引き寄せてくる不思議な感覚につながります。そうやって、橋本治が解きほぐしてくれたからくりに、何度、救われるような思いをしたか分りません。もちろん、それは救いにもなるけれど、同時に自分自身のありかたも鋭く突き刺すような認識をもたらすものなのですが。
 そんな才能にこの二十年間(初めて「桃尻娘」を読んだのが、たしか高校生のときだ)触れてきました。自分自身の状態に合わせて、ときに遠ざかったり近寄ったりしてきたのですが(氏のほうはかわらず精力的な活動をずっと行っています)、以前「夜」という短編集を読んだことから(感想はこちら)、どちらかというと時評の次でいいかな…と思っていた橋本治の小説のほうにもじっくり取りかかろうと思うようになりました。しかし、賞もとって評価が高い(というか橋本治の小説は本当に評価の対象から外れているのか、キャリアに比しても、一般的な批評を目にすることが本当に少ない)「蝶のゆくえ」を、何気なくぱら読みしたところ、児童虐待をテーマにした「ふらんだーすの犬」だけで、もうしばらく誰とも口をききたくなくなるような落ち込みを得たので、通読できていなかったりもします。いや、正直いうと「ふらんだーすの犬」でさえ、通読したとは言い難い…。虐待の描写が辛いとか可哀そうとかではなく、そういうことをしてしまう人間の心理のリアルさにぐったり落ち込んだ。この世に悪人はいない。愚かな人間がいるだけだ。
 なので、今回の「橋」も、まったく事前情報を得ずに手にとって読み始めたものの、どうやら明るい話ではなさそうだとすぐに気付き、正直いって、どうしようかなと思ったのですが、途中で止められない。ので、そのまま読み進めるしかありませんでした。小説には違いないのだけど、実に独特な文体で語られていくこの心地よさ。本当に、この語り口はユニーク。文学的素養や批評言語の語彙に乏しいわたしでは、なんとも表現しがたいのですが、いっけん神の視点に思えるものの、それよりも身近な、まるでずっと隣に座っている誰かが語り聞かせているようなその文体が、わたしには実に読みやすかったし、この世界を構成する重要な要素になっていると思います。いやまあ、だまされたと思って読んでみて。それでこんな文体、どこが珍しいのと返されたら、わたし、己の無知を平気で恥じますから。平気だったら恥じてないか。
 舞台になるのは北国の地方都市です。1981年、小学校三年生の子供たちが、その年の3月に解散したピンクレディーの「UFO」を雨の中唄いながら学校から帰っていく場面に始まるこの物語は、対照的といえばそうだけれども、似通っているといえば似通っている二人の少女の人生についてと同時に、その時代に少女であり、こどもであり、女であり、母親になることは、どういう意味をもったのかについても語っていきます。実は、彼女たちにはあるモデルが存在するのですが、わたしはそのことをはっきりと記されるまで、まったく気づくことがありませんでした。わたしは自分がそんな風に、語り手の言葉に素直にだまされる油断が多い読者であることをなにより幸福に思います。彼女たちが誰であるかを知ったときに、この小説の意図が、用心深いくせに饒舌なこの文体の陰から立ち上がってきます。分りましたか、これはそういうお話なのですよ、と静かに諭された瞬間に、圧倒されました。彼女たちの正体が、これまでの報道やうわさやルポのどれよりも、くっきりと浮かび上がり、わたしを見ました。
 しかし、まあ正直いいまして、同じように実在の人物をモデルにした作品を発表する作家は多いと思いますが、なんというか、「格が違う」感に、圧倒されました。単に出来がいいとか悪いとかでなく、ひとつ突き抜けた場所に、この物語は佇んでいる。なので、ストーリーに関してのネタばれはいっさいしたくありません。本当のことをいうと、キャラクターにモデルがあることすらいいたくないけれども、それを抜かすと、わたしがこの小説に圧倒された一番の部分について触れることができなくなるので…。
 
 この物語からは、いくらでも教訓を読み取ることができます。多くの人にとっては、これは愚かな二人の少女、一度も自分自身が真に欲するものについて考えることもなく、状況に流されて学ぶことがなかったこどもたちのなれの果てに見えるでしょう。しかし、それは少女たちだけでなく、この時代を生きていたほかの人々の多くもまた同じであったことが、二人の家族の歴史を見ればわかります。そして、なにより、自分はどうでしょうか。いまの時代にいる人々はどうでしょうか。この二人のたどる運命をまったくの他人事と思えたとしても、彼女らに比べても、自分は主体的に自分の人生を生きていると胸を張ることができるひとがいたとしたら、わたしはそのひとを恐ろしく傲岸に感じることでしょう。ひとつの大きな流れに対する個人の無力。それをこの物語からは感じます。
 派手な物語ではありません。独特の文体に、最初は戸惑うかもしれません。けれどぜひ、手にとって読み始めて見てください。この少女たちがどうなっていくのか、この時代はどこにたどりつくのか(その答えは明らかなものですが)、丁寧な伏線が見え隠れしては消えていくなか、モデルの存在を認識したあとでも、わたしは同じことを思いました。この少女たちはどこへいくのか。この時代はどういう時代だったのか。間違いなくお勧めの小説です。

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