「うただま プレミアム コンサート」デーモン閣下(新神戸オリエンタル劇場)感想のようなもの。

 おひさしぶりです、くさてるです。さて、ブログタイトル通りに行ってきました。デーモン閣下のアルバム「うただま」のプレミアムコンサート。なんと、閣下を生で拝見するのは7年ぶりです。え、マジ。

 タイトルこそこんな感じですが、いまから書くことは、ライブレポでもなんでもなくて、ごく個人的な感慨を記録するための文章です。それはもうわたしとしても、一曲一曲がどうだったああだった、このMCネタが最高だった、バックバンドのみなさまお一人お一人の個性が素敵で……とか、これまでにライブレポと同じようにそんなことを書いておきたい気もするけれど、こわいくらいにすっぽ抜けているので無理です。正確には、覚えているけれど、それを追体験するようなレポを書くことにあまり意味を見いだせない。なんかそれくらい衝撃だったのです。

 というわけで、まずはここでざらっとわたしの閣下宗歴を振り返ることをお許しください(このブログを読む一般の人にも分かりやすいように魔歴ではなく西暦で記述します。あと、わたしが閣下のことを「ひと」と書くときは「人間」という意味ではなく、単なる代名詞としての表現ということでご理解ください。悪魔だよ、知ってるよ)。あと、やはり言葉の端々にたいへん閣下に対し不遜な表現や閣下宗として至らないところが見受けられるかもしれませんが、そこらへんもどうぞご容赦ください。

 わたしと閣下のファーストコンタクトは、あの85年の「笑っていいとも」。このときに、こんなに面白いひといるかしら、とすごくときめいて、なおかつこういう外見のひとが歌が上手いわけがないと思ったのに、そのまま見た歌番組であの声を聞いて、びっくりしました。そしてその落差に恋に落ちたのでした。そのまま99年の解散まで、聖ll信者を続けたものの、その後のソロ活動にはなかなか触れることが出来ず(というか聖ll解散後、音楽はともかく映像でかれらを見ることができるまでに数年を要した)にいたものの「SYMPHONIA」あたりから、すごい好み!と思うようになり、ソロツアーにも参加するようになりました。そこらへんはこのブログの履歴を参考にしてくだされば分かります。そのあいだには聖llの二回にわたる再結成もありました。わたしはいつでも閣下宗でした。

  そして、それが途切れたのはいまをさかのぼる6年前。いきなり突発性難聴を発症したわたしは、そのとき入手していたMYTHOLOGYツアーのチケットを諦めざるをえなくなり、いま思えば何をそこまで思いつめずともという感じで、そのまま閣下からも遠ざかったのです。告白する。そのとき、聞きそびれた「MYTHOLOGY」というアルバム自体をちゃんと聞くことが出来たのは、それから何年もたってからです。なんかもう、それくらいショックだった。

 突発性難聴自体は、もうしょうがないなというレベルで症状が固定したものの、なかなかライブに行くことはできない日々を数年過ごしました。いまでもヘッドホンでは音楽は聴けない。それでも、ようやくすこしずつライブには参加するようになりました。しかし、閣下に触れることに関しては、わたしは立ち止まったままでした。 

 もちろんずっと閣下のことは好きだし、興味がなくなるわけもありません。ただ、以前のようなライブに参加する元気というか、気力というかそれが薄くなってしまった。それはもちろんいろんな心境とか生活の変化もあったのですが、それはともかく。でも、やっぱり、閣下のことを忘れるわけはなく……。
 
 で、「うただま」ですよ。わたしは一連の「GIRL’sROCK」シリーズは大好きだったけれど、閣下がこういう楽曲をカヴァーするということ自体に新味が感じられず(しかし「EXISTENCE」はピンとこなかった)購入こそしたものの、しっかり聞き込むことは無いままでした。しかしそれでも、ツアーが始まるという情報が入ってくる時期となり、Twitterみたいに情報や画像が飛び込んでくる場所にいたせいもあって、そこではじめて、もしかして、わたしは閣下を見られるのかもという思いになってきました。こういうのって、微妙なタイミングなんですよね。でも、いまなら……という気持ちがわいてきたのです。

 それでもまだ、ためらいがあったのですが、ご親切な信者様のお誘いがあり(個人的に思うのですが、聖ll信者のみなさまのあの相互扶助精神というか博愛精神はどこからくるのかというかなんかすごいですよね。デッドヘッズとまではいきませんが、なんかすごいなあと思います)チケットを無事に入手できました。ありがとうございました、T様。

 しかもその席がすさまじい良席だったのです。わたし、座った瞬間から「わたしはいま死んでていていま死後の世界にいるんですかね」「ネロとパトラッシュ的に最後の夢を見てるところですかね」とか、ちょっと前に古くからの親友が推しキャラのあまりの優遇に口走ったたわごとと同じようなことをずっと口走っていたのでした。あまりにもの幸運は、単純な幸福感よりもこれは現実じゃない感を起こすね、Mさん。

 そして始まったステージ。それまでは、ずっと現実感がない、ふわふわした思いでした。

 ひさしぶりに見た閣下は、驚くほど変わっていませんでした。まず、わあ、閣下だあと思いました。すごいなあ、なにも変わってない、というか、閣下は閣下のままだなあと眺めました。出てきた瞬間に泣き出しちゃうかなあなんて思ってたんだけど、あんがいそうでもなかった。

 もちろん閣下の声はやっぱり素敵で、ああいいステージだな、とすぐに思いました。これをきっかけにすごく燃え上がっちゃうんじゃないの、という心配とか期待とか、あるいはそうでもなくてふーんで終わっちゃうんじゃないのとかいう不安とか心配、浮かんできたのはそのどちらの感情でもありませんでした。

 ただ、閣下はわたしの知っている閣下として、ステージに存在していました。歌声はもちろん、あのとっても楽しい、ある意味もたつくけどそこがまた笑えるおしゃべりをして、回りくどくなっちゃう話に自分で笑っていました。わたしはそれを、ああ、閣下の笑顔はいいなあなんて思ってずっとながめていたのです。 

 そして、それからすぐに、ここらへんで、何曲目とかそういうの、飛んじゃうんです。たしか、最初のMC後、曲は多分「千秋楽 – 雅楽・盤渉調古典曲をモチーフとした独自楽曲 -」です。なんでそんなに自信がないのかといいますと、ほんとうに、記憶が飛んでるから。あの曲だよね、と帰ってから音源で確認したけど、自信がないくらいに、ふわっと飛んで。なんで飛んだかって。

 号泣したからですよ。

 きっかけはなんだったかなあ。この曲は、とにかくドラマティックでスケールの大きな曲で、それを照明の落ちたステージで歌い上げる閣下が、すごくきれいだなあと思ったのは覚えている。でも、これまでわたし、閣下のこと何回きれいだと思ったかなあ。百回とか二百回じゃねえよなあ、しかも何年のあいだ、そう思ってきたんだろう?こんな相手、ほかにいないよなあ……。そう。

 他に、いないよなあ。そう思ったんですよね。

 気づけばもう何十年も生きてきて、閣下を知る前の人生よりも閣下を知ったあとの人生がすでに二倍くらいの長さになっていました。わたしは何十年も閣下を見てきて、閣下のことが大好きで、閣下はずっときれいで、他に無くて、わたしはそんな閣下を見ているだけで幸せで、そして閣下は、この世の他のだれよりも長い間。

 わたしのそばにいてくれたんじゃないか、って。

 そう思った瞬間に、ぶわっと涙があふれて、もう駄目でした。もちろん、そばにいてくれたというか、わたしが勝手に閣下の歌を、姿を、自分のそばから離さなかっただけなんです。それも自分の都合勝手で、近づいたり離れたり。根っからのガチの閣下宗のみなさまからすれば、笑っちゃうような薄さですよ。こう書いたら自分でも笑う。ナニサマ。

 だからこれはあくまで比喩なんだけど、それでも、閣下は、わたしの人生にいてくれたのです。わたしがどんなときも、閣下から目を離していた時も、それでも、わたしのなかに閣下はいて、だからこそ今また、閣下の姿をこうやって見ることができた。そしてまた、大好きだという気持ちをくれた。こんな相手が、この世のどこに、他にいるというの。

 ただもう、背中を丸めて、嗚咽して泣きました。隣の見知らぬマダムが心配して声をかけてくださいました(申し訳ございません)。とてもじゃないけど顔を上げていられずに、それでも、泣いてないで閣下見ろよ、と自分でツッコミをいれました。

 でも、そんなわたしのところにも、閣下の歌声は降りそそいで、降りそそいで。まるで、真夜中に道を照らす満月の光のように。手が届くわけではないのに、なにかを示してくれるあの光みたいに、わたしを包んで。

 そしたらそのあとが、これははっきり覚えている「やつらの足音のバラード」ですよ。閣下がわたしを殺しに来ていると思いました。なんにもない、なんにもない,まったくなんにもない……。わたし、今回のステージで泣くとしたら、「Zutto」あるいは「toi toi toi」だと思ってたのに。

 しかし、ここで泣き続けたせいで、そのあとはなんだかにこにこと笑って聞けました。このあとの閣下のおしゃべりが、昔とまったく変わらず、なんというかわたしの知っている閣下だったせいで、気持ちがぐっと落ち着いた。なので、本当だったらこのあともちまちまと書き続けたでろう、このレポというか感想文も、あとはあんまり書くことないんです。だってあとはもう、ただ楽しくて、閣下が可愛くて可愛くて!

 ほんとうに閣下は素敵でした。こういうソロツアーでの、リラックスして、自分の好きなことをしている閣下、現場にいる人全員が閣下を好きな場所にいる閣下は、ほんとうに嬉しそうで楽しそう。そして、わたしは閣下のこういう顔が見たいんだとしか思わなかった。そして、なにより最高なのは、こんなにながいあいだ閣下を見てきて、いま現在の閣下がいちばん最高だって、胸を張って言えること、です。

 そしてアンコール最後の曲が「AGE OF ZERO」だったのが、ほんとうにたまらなかった。I wanna be a happy man!わたしは幸福な閣下が大好きです。そんな閣下を見ていたかったのです。

 わたしは、基本的にすごく調子乗りで浮かれやすく、勢いに突っ走る癖に気にしいで、まったくもってどうしようもない人間です。年齢に比した落ち着きとか成熟とかは葬式で焼かれるときでも身につかないでしょう。ああ、でも閣下。閣下のおかげです、と思いました。閣下がいるからです、と思いました。あなたがいるからです、と。

 自分の好きなことを、自分のフィールドでやり続けている閣下を見たから、おかしな足踏みを続けるような自分ではいけないと思いました。それはもう、プライベートでもなんでも。まったく、閣下は14歳のわたしに、好きなひとを与えてくれて、聖llを通じて友達をくれて、ほかにもいっぱいいっぱい、いろんなものをくれました。けれど、いちばん大事なものは、閣下はかわらずそこにいて、わたしの目の届くところにいてくれる、という事実かもしれません。それももちろん、永遠ではない。わたしも閣下も永遠ではないのだから、それは当たり前です。でも、永遠でなくとも、いまだけでも、そのいまができる限り長く続くのなら、それはきっと、とても素晴らしいこと。

 うん、閣下。ありがとうございました。とりあえず9月の倉敷も行きます。大好きです。 
 
 

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