「私の血はインクでできているのよ」久世番子(講談社・ワイドKC)



 「暴れん坊本屋さん」で人気のマンガ家さんの、自らの半生を振り返ったオタク少女年代記です。たぶん、これの感想を書く人は、みな「わたしの場合は」と語らずにはいられないでしょう。それ集めたら、文系オタクのちょっとしたフィールドワークになるんじゃないか、もしかして。と思わせるくらいに、オタクとしては既視感のあるエピソードばかり。記憶の地獄のフタが開くことうけあいです。
 ただ、おえかき少女から始まって立派なオタク女子に成り果てた(腐女子と名乗るほどの元気はない…)わたしが、この本を読んで、まず第一に思ったのはただひとつ。
 名鉄の駅員さんの制服にこのわたしが気づかなかったなんて。
 あんなに人生における必要量以上に愛知県に通っていたこのわたしが、こんな素敵な制服を見過ごしていたなんて、一生の不覚。だって名鉄を使うことがほとんどなかったから…。だけど明らかにこの冬服はわたしのストライクゾーン。ていうか愛知の身内に声をかけたら一人ぐらい持ってないか、番子さんの名鉄駅員本…。
 それはともかく。番子さん自身も述べておられますが、おんなのこはみんな、お姫様の絵から始まり、おえかきが大好きなもの。けれど年齢を経るにつれて、いつしか絵を描くお友達は少なくなって、同じ目をしたオトモダチが残っていく。そんな地方のオタク少女の恥多きエピソードが、自虐たっぷりに描かれているため、同じオタク女子としては蘇った記憶に対して、番子さんと同じタイミングで「本部ーー!当時の自分の射殺許可を求めます!」と叫ぶことしばしば。しかも番子さんは、当時の自分の絵をけっこう残していて、それが掲載されているものだから、臨場感もまたはなはだしい。絵に流行ってあるよね。あれはどこから始まり、どこにたどりついていくのだろう。そんなことをふと思う、お絵かき少女であることは、わりと早い段階で見切りをつけていたのだけど、いつまでも尻尾をひきずっていたわたしです。14帝國にハマる直前まで絵を描いていて、14帝國にハマったのと絵を描かなくなったのが同時期だったのは、まさに皇帝陛下の恩恵のなせるわざとでもいうしかない。
 にしても、オタクは恥ずかしい。なぜなら、世界が狭いから。自分の信じる趣味だけが世界を回していると思い込んで、それ以外の世界があるなんて、想像もしないから(なんせ自分の妄想に忙しいので、それ以外の世界に目を向ける暇なんかない)。だから自分の絵を自慢して、家族も巻き込んで、自分の宝物をひけらかしてしまう。それはまさしく本来の意味で自分だけの宝物なのだけど。そして、とにかく、熱い。ファンの語源がファナティックであるように、一歩、道を踏み外したおおはしゃぎこそが、思春期オタクの王道であるとわたしは思います。思春期を遠く離れても、はしゃいでるひともたくさんいますが、まあ、それもまたたのし。
 ただ、番子さんのこのマンガが、普通に描かれたの過去の恥ずかしい話と一線を画すのは、大いに恥ずかしがり、後悔もして、いやーと叫びつつも、過去に向ける眼差しが優しく温かいところ。あんなに馬鹿なことをしたね、と切り捨てるのでなく、それがつながっていまの自分があるんだということを認めているところだと思います。否定してない。そう、あのころはとても楽しかったんだもの。さらに、そこに人間がいる以上、嫌な思い出も揉め事もあったかもしれないけれど、ここではそういうマイナス面に触れることはありません。これはそういうマンガでないから。馬鹿だったけど、ひたすら楽しかったこと。友達を増やしてしてくれたオタク趣味を懐かしむもの、なのだから。それは簡単なようで、実はなかなか出来ないカミングアウト。読んでいてとても楽しく、懐かしい気持ちになりました。そしてこういう青春の乱痴気騒ぎは、確実に「いまもぜったいどこかでだれかがやってるよ」。みんな、いっぱい楽しんで、それから大人になっていくといいと思うよ…。一度は思い出したくない過去になるかもしれないけど、それを通り越したら、一番の持ちネタにだってなるんだから。
 しかし、わたしは、デーモン小暮閣下に初めてプレゼントを手渡しできる機会(FC限定)に恵まれた高校生のとき、考えに考えぬいて、閣下への一番の贈り物として、中島梓の「コミュニケーション不全症候群」を選んだことは、墓場まで持っていこうと思います。みんなこれ、内緒にしてね。

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