「理屈は理屈 神は神」かんべむさし(講談社)



 かんべむさしといえば、わたしにとっては、日本SFが好きだった兄の影響で短編集やエッセイを何冊か読んだことがあるSF作家のひとりです。とくに、ユーモア溢れるエッセイが好みでした。もっとも最近は、著書を手に取ることもなかったのですが、この本を「宗教」の棚で見つけて、ぱらっと見たところ、どうやら信仰告白の書のようだったので、驚きました。それも仏教やキリスト教とも違う、新宗教のようだし、どうしちゃったのかなあというのが最初の印象でした。
 どうしちゃったのかなあと思いつつ、しかし、読み始めてすぐに、これはどうしちゃったわけでもなさそうなことを感じました。なんというか、妄信でない。人生に起こった様々な出来事を通して、自然にその宗教にたどりついた道のりが、ところどころユーモアを挟みつつも、知的好奇心を刺激する文章で語られていきます。著者は、あらかじめ読者が持ちそうな疑問や考えについて、自分も迷いながら、誠実に答えます。それはそのまま著者本人がたどってきた信仰への興味や疑いの道のりでもあり、それを読むことにより、読者もまたその道のりを再体験できるような感じまであります。
 わたし個人をいうならば、一般的な日本人の多くと同じ、「特定の宗教を信仰するわけではないけれど、自然な形での仏教や神道行事への参加を大げさに拒むことはなく、なんとはなしに目に見えないものの存在は肯定している」レベルの宗教心しかありません。そんなわたしが、この信仰告白の書を違和感を感じることなく最後まで面白く読み終えることができたのは、著者本人が首をかしげながら、少しずつ少しずつ、宗教世界に近づいていったからではないかと感じました。そこに至るまでの、著者の人生の遍歴や考え方も、理解しやすく語られているため、その道のりが理解しやすいのですね。
 なによりもまた、押し付けがましさがまったくといっていいほどありません。他の宗教への批判、宗教の中心者の極端な神格化、視野の狭さが無いだけでも、宗教の本ということで、身構えていたこちらは拍子抜けするほど。ぶっちゃけ、宗教への勧誘の書ではないのです。もちろん、自分がこの宗教のどこを良いと思って行ったのかという意味での、いいところは紹介してあるけれども、そもそもの立ち位置が「人はそれぞれ、職業や立場はもちろん、人生経験も価値観もすべて異なっている。だからその全員が、どこか特定の宗教の教えに等しく感応することなどありえない」という前提にたっているのです。なので、SF作家ならではのバランス感覚は、損なわれておらず、だからこそこの宗教自体がどうこうというよりも、様々な人生の経験を経て、自分に合う宗教として、ある信仰に出会った作家の物語として面白く読める内容になっていると思うのです。いわゆる科学では割り切れない不思議な現象を紹介しながらも、それは最後の最後まで、つらぬかれている姿勢です。
 それだけ理知的な著者が、それでも「信仰する」に至った道のりを読んでいると、わたしも「信じるってなんだろう」と思いました。目に見えないものである思考が人間をどこまで左右するか。よく、目に見えないものは信用しないとかいういいかたをしますが、思考や感情は、まさに目に見えないものであり、人間は、当たり前のようにそれを信じます。しかしこれ一辺倒になる落とし穴の深さを思うに、科学的思考の大事さも認めないわけにはいきません。両者のバランスを取りながら、わたし個人としてはあくまで趣味や嗜好のひとつとして、目に見えないものとはつきあっていきたいと感じました。
 ちなみに、作者はある種の見識を持って、本文ではその宗教名を明らかにしていないので、ここでも保護色にしておきますが、金光教です。わたしは、いま住んでいる土地がそこの本部であるので、名前だけは知っていました。しかし信者の知り合いはいませんし(カミングアウトされてないだけかもしれないけど)、教義についてもこの本で初めて知りました。そういう意味で、この感想も理解の足りないものになっているかもしれませんが、ご容赦下さい。

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