「セックス放浪記」中村うさぎ(新潮社)



  ストレートなタイトル。しかし内容を読めば、まさにこういうことなのでいたしかたないのかも。ずっと読んでいた中村うさぎのエッセイですが、デリヘル経験あたりまではなんとかついていけたものの、それ以後のセックスに偏った自分探し(まさにこれですね)を雑誌でちらっと読んで、ちょっとげんなりしてしまったので、これも未読でありました。今回、最新刊「狂人失格」を読んで、いまの中村うさぎがたどりついた場所、というものに興味がわいたため、思い切って読んでみました。
 「自分の女としての価値を確かめるため」デリヘルを経験したあと(デリヘルが果たしてその役に立つことなのかはさておき、ですよ)、今度は「若いイケメンに心の底から欲情してもらうこと」を目標に、まずはウリセンを買うことにした中村うさぎ。もうそこで間違ってるとか皆さんの言いたいことはわたしが思いましたから。ええ、金で買ってる段階で、その前提条件がぶち壊しになりますよね?わたしもそう思いますよ。
 なので、そこから始まる、ハプニングバーでの見られながらのセックスだのSMバーでのM嬢としての吊りさげられ体験だのは、正直言って、わりとどうでもいいことです。だって、本来、その嗜好がないひとがそういう趣味的なことをやったところで面白くないのは当り前じゃないですか。自分にはM指向があるのかもしれない、と「なんでもみてやろう」的に、とりあえず体験してみようという開拓心は、もしかして評価できるのかもしれないけれど、やっぱりそれも無理じゃないかな…。だって、性的嗜好(中村うさぎはエロツボといいますが)なんて、自分の心のなかから自然に湧き上がってくるもので、あれこれ試して開発して、という即物的なものでないような気がします。性というものは、他人との関係性が大前提だと思うのに、それ無しではじめての場所で吊り下げられたところで、バンジージャンプとかわることはないだろう。しかもそれ、大人になれないし。
 しかしそうやって、中村うさぎは、自分の都合だけで「女を開発できる」と思い込むおっさんたちを馬鹿じゃないかといきりたちながら、自分もまた誰かに自分の「めくるめくセックス」を開発させてもらいたいと願って武者修行のようなセックスを繰り返す。そこらへんの突き詰め方は、本当に、皮肉抜きに、真面目なひとだなと思った。そんなことに決まった答があると思っているひとは、真面目な人だ。
 けれど、わたしがいま書いたこういうことは、実は中村うさぎ自身も「分かっている」とこの本の中で述べている(ような気がする)。そしてどこまでも、どうして「自分」は「めくるめくセックス」が体験できないのかということを、繰り返し繰り返し決して溶けない飴をねぶり続けるように、考え続ける。けれどもそんな彼女にも、とうとう理想のセックス相手が現れます。ええ、快感に打ち震えるような素晴らしいセックスを体験できたのは、彼女がちゃんと恋をした相手でした。みんな、モニターを殴らないでください!わたしだって本を放り投げようとしたのをかろうじて押さえたんです!
 いやいやいや。でも、それはそうですよね。テクニックだの性的嗜好だの以前に、好きな男とするのが一番ですよね。それはわかるのだが、それ、ここまで行き着くまで本当に分らなかったのですか、女王様…。「めくるめく快感」と表現はするものの、好きな相手が自分を受け入れてくれたこと、それによる脳内の快楽物質の放出ですよね、きっと。だから、それは、きっと、セックスの問題ではないのだ…。ていうか当たり前やがな…。だって彼女はセックスセックスと連呼しつつも、具体的に自分がどんなことをされるのが好きかとかなにがいいのかを語らない。自分を「マグロ」と称して恥じない。だから、本当に求めていたのは、セックスでなかったのだとわたしは思います。
 けれど、その快感のはじまりが、同時に苦悩への入り口となります。それは、恋した相手が、金で買ったウリセンの男だったから。ホスト相手に本気の恋をして痛い目を見た経験のある中村うさぎだからこそ、相手の気持ちが信じられず、金を払うことで安心しようとし、金を払うことで相手に失望し続ける。それはとても不幸なことで、でも、わたしは、よくわからない。どうしてこのひとは、ここまで人目を気にするのだろう。イタい女だということは分かってる、ダメなのは分かってると言い続けるのは、他人にそう云われないために前もって自分で言ってしまっているだけの話。他人から見て美しい女と思われるために美容整形を繰り返し、他人に望まれた結果としてのセックスを求めた結果、本当に恋した相手のことも信じきることは出来ず(そして哀しいことにその判断は正しい)、恋が終わる瞬間だけを考え続ける。
 でも、とわたしは思います。でも、ブランド品を買いあさって、支払いに目を回してた頃のうさぎちゃんは、確かに痛かったけど、でも、言い訳してなかったよ、と。「あたしが気持ちいいから買うの!」って言いきって、本気で買い物して、支払いに四苦八苦して、その様子を包み隠さずエッセイに書いて、それが面白かったんですよ。だってそれが人間だもん。そう考えると、やはり、あのホストに恋をして失った経験が、彼女をここまで連れてきたのかという事実に、なんともいえない気分になります。中村うさぎ自身は、自分は最初からこうだったと書いているけれど、それでもわたしは、やっぱりなんともいえない気分になるのです。
 あと、このひとはキリスト教のひとなのですよね。だから、彼女が見ている、意識している他人とは結局神様なんだろう。しかも己の心に内在する神様。そんな相手には隠し事もできず、さぞかし辛いだろう。昔はそれを「ツッコミ小人」と呼んでいたけれどたぶん、それは神様。いつも、一定の理想を達成できないできる自分を眺めているもうひとりの自分という神様。自分で自分を認めることができれば、でもそれが出来ないというけれど、その神様は神様なんだから、要求が高くて当然なのだ。これはとても辛いことなんだと思います。
 そんなわけで、まあ悲しいし、ひどい話ではあるけれど、読後感はけして悪くありません。それが不思議だけど、やっぱりここまで自己分析に自己分析を重ねられると「それならもうそれでいいのでは」という気分になるからかもしれません。この分析に己を重ねて気づかされるひとも、きっといると思います。それだけ。誠実に自分自身と向き合ってきたことは伝わってくる。だから、こういう経験を過ぎたうえで、「わたしにはもうなにもない」と言い切るいまの彼女の立ち位置もなんとなく理解できた気がするのです。ここまで自分を分析した結果、そこから動けないままでいるのなら、彼女が向かう道があるのかどうか。読者として、その様子を見守っていきたいと思いました。

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