「お供え」吉田知子(福武書店)



 先日読んだ「小川洋子の偏愛短篇箱」(感想はこちら)に収録されていた「お供え」のすごさにひっくり返ったため、それを収録している同題の作品集を手にとってみました。全部で7つの作品が収録されていますが、そのどれもが「お供え」に負けずとも劣らない出来でした。
 どれも似通っているといえば似ている。取り立てて個性があるようには思えない女性を主人公としながらも(「」だけが違います)、異界と現世、過去と現在、夢と現実、それらの境界が曖昧になった世界を漂う人間を描いています。そこは、なんともいえない不穏な空気がよどんで溜まった空間。古い畳の、踏んだ途端に足が吸い込まれていくような感覚、青臭い木々と草の香りが濃く漂う山の空気、季節外れの海に架けられた橋に刻まれた、執拗な愛の言葉、崖、階段。そういった世界に点在する人々の悪意にすらなり得なかった執念のようなもの。それに読み手が出会うとき、背中をすっとなにかに撫でられたような、そんな錯覚に襲われるような作品たちなのです。これ、漫画化するなら山岸涼子。一度そう思ったらそれ以外の絵が浮かばずに、ちょっと困ったのだけど、彼女の作品で言うなら「黄泉比良坂」とかに雰囲気が良く似ている。しかし、この本が本当に山岸涼子によってコミカライズされたりした日には、それを購入した人とか置いてある本屋のみならず、日本そのものに災厄がふりかかりそうな、そんな禍々しささえ予想されます。もしかしなくても、開いてはいけない扉、かけてはいけない声、ふりむいてはいけない相手、そんなことがこの本のなか、読み手の裾をすっと引く小さな白い手のように、存在しているのです。怖い本かって?ええ、怖かったですとも!
 一般に怖い本といえば、ホラー、サイコサスペンス、人間の悪意を描いたものなど、いくつかのものに分類されるような気がしますが、この恐ろしさはそのどれとも違う、いわば土俗的な、土や生活につながっている恐ろしさを感じます。山や川に赴いたとき、その美しさや雄大さに圧倒されるとき、それに惹かれつつも、ふと浮かぶ「なんだか怖いな」と感じる、ああいう気持ち。半分壁が崩れて蔦に浸食されている古い蔵のそばに転がっている、一体の市松人形。なにげなく手にとってみることもためらわれるそれの、くちだけが、妙に生々しく赤く濡れているように思える、そういう怖さです。こういう怖さって海外にあるのかしら。ちょっとシャーリイ・ジャクソンとかを連想した。
祗樹院
 友人に付き合って県境の小さな村にまで出かけることになった「私」。初めてみる景色だったが、なぜか建物の名前もそこにあるはずの川についても、自分は知っているのだった。どうしてと考えているうちに、逃れられない場所にたどりついた「私」は…。頻出するデジャブの感覚の禍々しさと、破滅に向かうことを承知のうえで逃げ出せず、むしろそこに向かっていくしかないという思考の怖さがブレンドされて、たまらなく怖かった。いったん逃げたとしても本当には逃げ切れない。呪というのはこういうことをいうんじゃないのかしら。
迷蕨
 ワラビ取りに山に出かけた「私」は、夢中でワラビをとるうちに、指先に鋭い痛みを感じた。有刺鉄線があったのだ。どうしてこんな山中に、そんなものがあるのか。気にせずワラビをとっていけば、ゼンマイまでも見つかって、わたしはいつまでも山菜摘みをやめられなくなっていく…。思えばわたしは田舎の祖母宅が、こういう山のすぐふもとにあって、ワラビもゼンマイも自生しているのを取った経験がある。だからだろうか、よりくっきりとビジュアルが浮かび、主人公が誘い込まれていく朽ちかけた神社、煮しめの匂いまでもが目の前に差しだされたような気がする。なにひとつ説明されていないのに、たまらなく恐ろしい台詞がいくつもある。交錯する記憶、死者と生者の存在が融け合って同時にたたずんでいるこの雰囲気こそが、山のもつ力なのかもしれない。しかし最後の一文には本を落としそうになった。

 「私」が訪れた祖父の旧家。そこにはもう人は一人しか住んでいない。屋敷の前には大きな門があり、「私」はそれをくぐって、昔懐かしい古い屋敷に足を踏み入れた…。あのですね、昔の日本家屋って懐かしい以前になんだか怖くていやだってひとがいるじゃないですか。あの広々とした感じと、土間があるからこその冷えた空気と土の匂い。そういう場所が苦手なかたにはぜひお勧めしたい(逆の意味で)。ある意味、幽霊屋敷ものといえるのかもしれないけれど、一般的なそういうものと違って、生者に恨みや憎しみをぶつける超自然的な存在はない。けれど、明確な悪意だけはあるとわたしは感じた。もしかしたら屋敷は超然とそこにたたずんでいるだけで、こんなことになっているのかもしれないけれど、そこには理解も譲歩も不可能な、屋敷そのものが意識ある存在であるような、悪意があると思った。これも最後の一文が…。
海梯子
 小さいころから可愛がってくれた叔母が亡くなったと知った「私」は、久しぶりにいとこと連絡をとる。いとこの良はなぜか不機嫌そうに、それでもわたしを駅まで迎えに来て、歩き出した…。ここまで来たら、ある意味、同じ話が続いているかのような感想しか書けない自分が歯がゆい。ここでも、ずるずると引きずりだされていく過去の記憶の再構成と、生者と死者の融合、一瞬像が定まったかと思わせておいてまたぶれていくような違和感が溢れています。しかし、もしわたしがアンソロジーとか組むんであれば、この作品集からは(「お供え」を除いて)この作品を選ぶかな。舞台が山でも田舎でもないせいか、そういった環境になじみがないひとでも入りやすいと思うから。そして、他の作品に比しても、この独特の怖さは遜色がないから。我々が死者を恐れるのは、それが本質的に了解不可能な存在に変わり果てているからではないか。そして、もし、そのことに気づくのが遅くなったときになにが起こるかと言えば…。
お供え
 今日もあるだろう。あるに違いない。ないわけはない。それでも、もしかしたらないかもしれない…。夫を亡くし一人暮らしを続ける私の家の前に、毎日置かれる、ジュースの空き缶にさした雑草の花。どんなに片づけても毎日決まったように置かれ、見張っているときには見つからない。やがて、それがどんどん変化していって…。これが、わたしがこの作品集を手に取るきっかけになった作品ですが、やっぱりこれはすごいわ。日常にじんわりと侵食してくる非日常と、違和感。ほかの作品と違って、死者や過去も関係なく、ただ、くっきりした禍々しさと了解不能という意味での狂気を感じさせる展開に、ただもう、うちのめされるだけです。題名の意味が、最後で一瞬、明確になり、だけどもしかして、ともうひとつの意味につきあたることで、心底、ぞっとした。
逆旅
 宗教にかぶれたらしい姉の強引な誘いにのって、母たちと一緒に出かけることになった「私」。その近くには梅園があるらしく、「私」はそれを目当てに行こうと思っていた…・これはとても微妙なテーマを抱えているけれど、それと本質をごっちゃにせずに、この永遠に続く悪夢のような世界にひたっていただきたい。夢のなかではどうしても正しく電話をかけられないことがあるのを、どうしてこのひとは知っているのか。

 ほかの作品と違って、野卑な男の目から描かれた民話的、神話的な世界です。けれどどんどん物語は不穏さを増していく。ここでも、逃げているのに逃げられない感覚と、現世と夢との境界が曖昧になった世界が表現されていますが、一周まわってぐるりと向き直り、そこからまたはじまる悪夢の恐ろしさを感じました。
 わたしはひたすら怖がってしまったけれど、夢や無意識、異界がテーマになっている、純文学の世界のひとであると思います。使われている言葉の構成の巧みさと、けれどどこまでもはっきりとしない世界の怖さに、ぜひ酔ってみてください。

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