「窓を開けますか?」田辺聖子(清流出版)



 ぼちぼち読んでいる田辺聖子です。長いキャリアがある作家なだけに、さまざまな版形で本が出ているのですが、これはごく最近ハードカバーで再版されたもの。原本は1972年、というわけで40年近く前の小説になるわけですが、いや、すごいね。女子の心持ちって永遠に変わらないものなのかもしれません。
 32歳の亜希子はOLとして働きながら、妻と別居して離婚準備中の桐生と付き合っている。亜希子は、桐生に惚れこまれていることを楽しみながら、いまひとつ人生を賭けて相手を信じきることが出来ない。同じような年齢で独身の女友達と恋と仕事を語らいつつ、新たな男と出会い、戯れているうちにも、少しずつ桐生との関係は深くなっていく。やがて、大きな事件がきっかけとなり、亜希子は現実と向かい合っていくことに…。
 大阪、神戸が舞台のため、これでもかというコテコテの大阪弁に、最初は少し戸惑いました。はたして関西圏のOLはみんなこんな風に、春やすこけいこみたいなやりとりするんだろうか。しかしそれも読み進めていくうちに気にならなくなり、むしろ、その大阪弁でのさりげない台詞ひとつひとつが、なんとも味わい深いものに感じるようになっていくのです。この小説は亜希子の一人称で、当然ながら地の文は標準語なのだけど、そんな亜希子の思考が、言葉となって現れるときは、とても可愛らしくまたニュアンスのある大阪弁での表現になっていくのが心地よいです。
 しかし心地よいといえば、田辺聖子の小説はいつもそうなのですが、恋愛の、甘くていい加減でふわふわとして、とろけるような心持ちを描くのが本当に巧い。恋っていいなあ、と思います。眉尻を吊り上げて「あなたがいなければ生きていけない!」と叫んだり、滝のように涙を流しながら「誰かに取られるくらいならあなたを殺していいですか」とかいうのだけが愛でないと分かります。いや、その魅力も否定はしませんが。人間はまず、生活というものをしていて、そのなかで誰かと恋を楽しむということは、そういつでも真剣に真面目くさっていては、とてもやっていけないものだったりします。なので、己の気持ちについても、どこかちゃらんぽらんに、決めつけずに、一緒に楽しんでいければ御の字でないかとでもいわれているような気がする。そんな、人間同士の自然な心情が融け合う気持ちよさがこんなに伝わってくる文章は無いです。
 けれど同時に、この小説に溢れる三十路女子たちにとっては、生活というものがシビアな重さをもっています。今後の人生を思うに、男がいなくては不安でたまらず、かといって、誰でもいいからと見合いで決めてしまうにはしがらみがありすぎ、現役を退いた親や片付いた姉兄たちの視線もめんどくさい。ふわっとした恋愛の心地よさに酔っているだけではいけないのではないかということにもなんとなく気づいている。けれど、自分の人生を決めてしまうのは、なんともまた恐ろしいこと、変わるというのは怖いこと…そう感じている彼女らの姿勢を思うに、たぶん、いまの時代で行けば、5歳プラスくらいのひとが考えることと思えば、なおしっくりいくような気がします。それ以上の年齢にならないのは、夫はともかく、子供を産むことの生理的な限界が存在するから。こどもを産むということを放棄してしまえば、人生はさらに選択肢が広く、けれどもどこかうつろにぽっかりと穴が開くような気もしてしまう。そんな不安は、いつの時代の三十路女子でも同じように感じることでしょう。
 40年前の小説ではありますが、古臭さはありません。ただ、やっぱり登場する男性たちの思考や行動があまりにも昭和なので、そこで抵抗を感じるひともいるかも。とりわけ桐生が友人の医者と企んだことに関しては、わたしははっきりダメでした。昭和の男性としてはごく自然な判断だったのかもしれません。だって、桐生は平成22年のこの世では、すでに80近いわけで、そう思えば、仕方がない行動なのかな…。しかしそういう時代の制約をうけてもなお、男というか人間としてのかれらに、魅力を感じるのもまた事実なのです。みなとても人間くさく、個性溢れていて、亜希子ならずともどれにしようかな的な気持ちになるのは抑えられません。わたしは、強引な中にもどこか子供っぽさが抜けきらない、ハっちゃんこと端田がすごく好きでした。
 ちょっと幼く、とりわけ美しいというわけでもなく、キャリアという言葉からはほど遠い(しかし給料分の仕事はきっちりこなす)亜希子。彼女が、自分の気持ちと相手の男に振り回されるだけ振り回され、ひとつの終わりと始まりのなか、疲れ果て、奄美の島にたどりつく最後の章を読んだ時に、わたしは、なぜか泣き出してしまいました。なにも劇的なことは最後の最後まで起きない、というか物語の展開的には予想の範囲内のことしかないわけですが、「あたし、疲れたのよ!」と赤いスーツケースに涙を落した亜希子の前に、奄美の緑や海が姿を現したときに、涙があふれてしまいました。なぜかと問われれば、それは、奄美の緑が眼に痛いほど鮮烈で、優しかったからとしか云えません。さりげなく語られる、その自然が、疲れた亜希子を包み込む優しさに、わたしも泣きました。いま、田辺聖子は再評価の波が来ているのか、小説が再版されるだけでなく、マンガ化もされています。それは未読ですが、十分面白いものになっていることは予想できます。でも、やっぱりまずは小説で読んで欲しい。わたしはこの話を小説で読んで良かったと思いました。その奄美の緑は、写真でもなく、絵でもなく、ただ、田辺聖子の文章によってたちのぼったものだったから。本当に美しい、あざやかな、緑。
 田辺聖子は、まだまだ未読の作品が残っていて、わくわくしています。少しずつ丹念に、楽しんでいこうと思います。 

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