「人の道御三神といろはにブロガーズ」笙野頼子(河出書房新社)



 ひとりとは何だろう。ひとりとは俺の事。ひとりとは私の事、笙野頼子のヨリはヨリマシのよりなれど、心に千人の他者を宿しその声に耳を傾け千五百年の呪いを今描くけれど、またその時に心は古代の巫女のように、聞き取りは今のフィールドワークのように、ぶち割れるけれどそれでも自己はある。どこにある。
 心に千人の他者を宿して、それでも自己はある。罪に問われる時、我が身の消え行く時、観音や大師様がもし側にいてくれても、身体はひとり、ひとつ。
 人身受けがたく、今既に浮く(誤引用かもね)。

(240Pより引用)
  その人の新作を見つけたときに、思わず息をのんでときめいてしまい、購入した後は、そのまま一気に読んでしまいたい気持ちと、それでは勿体ない感じがするジレンマのなか、どれくらい読めるかとページ数を確認したり、手に持って重さを確認してしまうような不思議な儀式を行ってしまうような作家が、貴方には存在しませんか。わたしにとっては、笙野頼子がそういう作家です。いまや手垢がついた表現でいってしまえば、いわゆる「神」のひとりなわけですが、そんなこと言ってたら、ご本人が金毘羅という本当の神に変化してしまった、そんな稀有な存在でもあります。
 今回の最新作も、もちろん夢中になって一気に読んで、も一度再読しながら付箋とかつけてたわけですが、まっとうな感想を書くのはとても難しいのであきらめました。なにがどう面白いのか、初心者にうまく説明できる自信がない。もちろん、わたしにとってはとてつもなく面白い一冊であったのだけど、これまでに笙野頼子を読んだことが無い人には無条件で「おすすめ」とは言えません。この面白さをいちばん良いかたちで楽しめるのは、昔からリアルタイムで追っていたファン、その次が、リアルタイムで追っては無いけれど全作品くらいは読破してるファン(わたしはここ)なのではないでしょうか。本当に、いちばんおもしろく思いたいなら、時系列で読んでいくのがいちばん良いのです、きっと。ハードカバーで30冊ほどですが、わたしはほぼすべてを夢中で読んでいます。
 しかしそれでもどういう作家かと問われるならば、一言で表現して「溢れる」作家。溢れるのは、幻視、憤怒、文学、オノマトペ、幻想、古代の神、猫、偏執、嫌がらせ、食べ物、悲しみ、ワープロの画面、爆笑、ファックスの用紙、ネット内のジャーゴン、論争、権力、音楽、慈しみ。作家の内的外的世界に存在するそんなすべての事柄が、本のページから表面張力ギリギリに、読み手の側まで迫ってきて、時に溢れて、読者の心性に到達する言葉の奔流で構成された作品集です。畏れ多くも笙野頼子を語る時に、こんなクリシェ満載の文章は恥ずかしいと分かっていながらも、他に言葉を持たない私には、こういうやり方しかない。そして、そんなレベルの私にも、これは分る。笙野頼子は、神。
 それでもたとえば、前後のつながり無く(ある意味私小説というか、作家の人生の移り変わりが作品に反映されているので、それはいわば連続ものともいえる面白さであるのです。面白いと表現するには、ときに苛酷な現状であるとも思いますが)、いきなり一冊読むのなら、何がいいだろう。わたしの場合の初読は、芥川賞「レストレス・ドリーム」でしたが、三島由紀夫賞「二百回忌」が妥当かも…。そういう意味では、それらの作品にプラスして、野間文芸新人賞の「なにもしてない」の三作を収録した「笙野頼子三冠小説集」が、やっぱりベストかな。でも、個人的には、「S倉迷妄通信」「片付けない作家と西の天狗」などの、猫と暮らす実生活の話に幻想が濃く溶け込んだ作品が好きです。あ、でもでも、森茉莉の評伝「幽界森娘異聞」もすごく好き。ネコ好きには「愛別外猫雑記」かしら。
 そんな感じで作品をさらっと(本当に)紹介しましたが、この作家の個性を知らないまま、軽い気持ちで手に取ると、とくに最近の作品では、とにかくこだわりが強い心象にヒいてしまうかもしれない。まあ、粘着的なものにひくひとは、ある意味で笙野頼子のどの作品を読んでもヒく。たぶん。しかしその粘着的でも偏執的でもあるこだわりこそが、紛れもない個性であり、個性というのはそれだけで、相容れる人と相容れないひとを産むものです。わたしが、彼女の作品に惹かれるのは、怒りを隠さない率直さと、それにも関わらず哀しいくらいの不器用さ、鮮やかな幻視の世界によって彩られた、笙野頼子の目で見た世界の渾沌さ、です。それは世間一般の企画でいえば間違っていること、歪んでいるものもあるかもしれない。イタいっていうひともいるでしょう。でも、わたしは、それに惹かれる。彼女のイタさ(というものが存在したとして)が、彼女が抗う他の人々のイタさとどう違うのか、なぜおまえは前者を受け入れ、後者を拒むのかと問われたら、虐げられたもの、ないものとされたもの、道具として扱われることしか許されなかったもの、そんなものたちへの共存の眼差しの有無だと答えるでしょう。
 年代と共に扱う事象がじんわりと変化していく作家ですが、日本古代の神が登場するようになってきてからは、正直、ちょっと乗り切れないときもありました。作品世界の問題でなく、単に、わたしが古い日本の神が苦手だから。あのひとたち、怖いから。わたしは、幻想的な視線や夢の世界には惹かれつつも、普段の生活ではなるべく合理的な思考を尊び、物事を判断する時には現代科学に依りたいと思っている人間ですが、そもそも出自が四国の土佐なので、無駄な抵抗かもしれません。土着といえばおおげさな感じですが、祖母の住まう山の集落には、そこかしこに未だなにかがおり、小さなころから、祖母や母の会話には、普通に「山の神様」が存在していたのです。寺でも神社でもない場所に存在するであろう、未知のなにか。これはもう理屈を超えた体感なので、ご容赦願いたい。言ってしまえば、ただの迷信であり存在しないものだと分かっていながら、そこからの影響は感じずにいられない心性を持ったまま接するとと、笙野頼子の描く神は、不思議なリアリティを持って、存在するのです。爆笑必至のトンでもなさも同時に体現していたとしても。
 この「人の道御三神といろはにブロガーズ」(よく考えなくてもきょとんとされるタイトルですな。しかし「説教師カニバットと百人の危ない美女 」なんていうのもあるんだぜ)にも、古い神は登場します…というか、まさにそのひとたちの話でもあるわけだけど、同時に、いつもの笙野頼子の生活や、おまけと称された論争というか闘いの記録もこってり乗っていて、たいへん読み応えのある一冊です。なので、むしろ古い神に興味がある人に、何気ない気持ちから手に取り、終わるに従って驚いて頂きたいかも。この作家の心性に自分の感覚のチューニングを合わせるのはとても大変かもしれませんが、それが成功さえすれば、とてつもなくエキサイティングな知的興奮を味わえることでしょう。わたしにとっては、それが純文学です。

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