「愛のコリーダ 完全ノーカット版」大島渚監督



 もともととても好きな映画でしたが、完全版を見たのはこれが初めて。公開当時(70年代)は、性描写が問題になるであろうと予想されたので、フランスとの合作にして、編集作業などは彼の地で行ったそうですが、それでも、これまでビデオなどでわたしが見ることが出来たのは、かなりのボカシが入った不完全なものでした。しかし時代は流れる。というわけで、今回ノーカット版を見たわけですが、まるで別の作品と云っていいくらいに、これまでの版と違った印象を与えますね。もちろん、ノーカットといいつつも、最低限のボカシは入ってますが、以前の版に比べれば、少なくともなにをどうしているかが分かるようになりました。二人の三々九度(の真似事)のあと、芸者さんはあんなことになっていたのか。
 カットされていた二分というのは、最後近くのシーンかな?あと、以前の版では画面がニ分割されていた箇所があったような気がするんですが(そこだけ「ファントム・オブ・パラダイス」じゃないんだからと冷めた記憶がある)、それもなくなってましたね。それにしても今回の版を見て、この映画にとっては、これまでぼかされてきたその箇所こそが肝だったのだな、と分かりました。なんといっても、これは安部定と吉蔵の話です。性愛で結びついた男女二人の心中(実際にはそこまでに至りませんが)へとたどる道筋を描くのに、その肝心の描写をぼやかされることは命取りでしょう。もっとも、わたしはそのボカシ満載の不完全版でも十分にしびれてしまったので、関係ないといえばないのか。あるいはボカシていどで薄まるものではなかったのか。
 一言で云えば、見る人をとても選ぶ映画です。性描写、という面で胸をわくわくさせた殿方が見たら、たぶん、とてもげんなりすると思うし、女性は生理的に受けつけないひとも多いんじゃないかな。二人の姿は、純愛ともいわれますが、それを期待したら、違うと思うだろう。古い映画でもあるので、いまの映画には存在しない独特のえぐみのようなものもあります。
 じゃあ、なにがいいのかといいますと。出逢ってはならなかった二人の男女がどうしようもなく結びつき、離れられなくなるその運命の物語。こういう話を、SMとか猟奇とか、カテゴライズすることには意味はないと思います。そういうレッテル以前のものとしてそこに存在する激しさ。ただ、そういう破滅的な結びつき、他者を排除した二人だけの地獄行きの物語に惹かれたことがあるひとなら、見て損はないと思います。なぜ定は吉に惹かれたのか、とかどうして行為にそこまで耽溺しなくてはいけなかったのか、とかいうことは考えるまでも無い。ただ、そうなってしまった二人の物語なわけだから。
 あと、主演二人について。まず、定を演じる松田英子は、正直言いまして、全然美人ではないのです。少なくとも、現代の基準からいったら、魔性の女のレッテルを貼られるような顔立ちではない。しかし、物語が進むうちにぐいぐいと現れてくる、その視線と表情でもうたまらない。声。唇。睫。美人でも悪女でもなく、ただ「定」という女として存在するその凄み。どんどん贅肉が削げ落ちていく肉体の美しさ。本当に綺麗な身体です。怖いほどの、存在。スチールだけでは伝わらない、それを感じられるのは、この映画と重なり合う琴線を持ち合わせたひとだけかもしれないけど。
 あと、吉を演じる藤竜也。云うまでもないですけど、凄いです。藤竜也という名前などどこにもなく、ただ「吉」としてそこにいる。自堕落で野蛮で、それでいて品がある。笑顔がいいし、身体も良い。ほとんどのシーンで、かれは声を荒げることはなく、どこか眠たそうな響きすらする穏やかな口調を崩しませんが、たまにある激しい声が、実に良いのです。そしてなにより、とてつもなく優しい。この優しさが、吉の魅力です。
 この二人のみの、つまりはそういう話なわけです。性描写がかなりのもの(物語の8割はそのシーン)なのと、シーン的には僅かですけど、残酷描写もありますので、そこらへんがネックにならなければ、激しい出会いの運命に惹かれるかたには見てほしいな。
 しかしわたしはこれを見ているあいだずっと脈が速かったうえ、そのせいか、終わったとたんに軽い貧血を起こしました(笑)。つまり、それくらい観るひとによっては神経の緊張がもたらされる映画だと思います。ご覚悟ください。

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