「タクシードライバー」(マーティン・スコセッシ監督)



 ストーリーについては、もうそれこそamazonのレビューなどを読んでいただけたらいいと思うのですが、これは参りました。やっぱり名作って見とくもんだな。
 前半の、他者とのコミュニケーションが下手というかズレが激しいのにも関わらず、ひたすら不器用に関わりを求めるトラビスの姿が、痛々しくて辛い。トラビスとコーヒーを飲むときのベッツィの目の冷たいこと冷たいこと。わたしは女だからか、ベッツィの気持ちもようく分かるから余計にいたたまれない。トラビスの空気の読めなさっぷりは、そりゃ、怖いよ。しかし、トラビスにはそもそもどうすればいいのか分からないのだ。
 なので、後半の、トラビスが銃を手に入れ目的を得てからの姿のほうがある意味安心して見る事ができました。焦燥感とともに存在する世間とのズレは、相変わらずなんだけど、空回りはしていない芯が出来たような感じがして。しかしこれを見て「ようし、わたしもトラビスのようになにかを見つけないとな」と思ったわたしもまた、孤独な人間なのかもしれません。しっかりわたし。
 トラビスのシーン以外では、12歳の少女娼婦アイリスを演じたジョディ・フォスターと長髪のポン引きを演じるハーヴェイ・カイテルがムーディなテーマ曲に合わせてゆっくりと踊るシーンが良かったです。アイリスが男の背中に回した手を見るだけで、彼女の孤独と男への愛着が伝わってくる。まるで吸血鬼カーミラを演じた亜弓さんのようだ(例えてそれか)。
 静かなラストに向かうにつれて、一番最初の登場シーンではなんともオタクぽい陰気な青年だったトラビスが、精悍ともいえる表情を持った男に変わっていく様子は圧巻。トラビス自体は、目的を得ただけで、かれの孤独はなんら癒されているわけではないのに。デニーロはルックスがとりわけ優れているひとではないと思いますが、ここでのかれは狂気と孤独にたゆたう実に魅力的な表情をしています。
 ところで、この映画と同じ時期のアメリカ映画で、同じように都会に生きる人間の孤独を描いた優れた映画に「ミスターグッドバーを探して」があります。それでダイアン・キートンが演じた主人公のラストとこの「タクシードライバー」のラストを比較すると、興味深いものがあります。誰かを殺すか、それとも殺されるかの違い。それがこの時代の男女の違いであったのかもしれません。

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