「欲望という名の電車」(監督:エリア・カザン/1951)



 昔に、ラスト20分だけを見て釘付けになったことから、原作の戯曲も読んだ名作です。今回、改めて全篇を通して観たのですが、これはもう、観るんじゃなかった…。いまのわたしにはこのブランチはキツすぎる…。
 没落した名家の出身であるブランチが、ニューオリンズの労働者であるスタンリーと結婚した妹のステラを訪ね、同居するようになります。粗野なスタンリーと教師であり教養をひけらかすブランチとのあいだには常に軋轢が生じ、板ばさみになったステラは苦しみつつも、姉と夫のどちらかを選ぶことはできません。過去に謎めいたところがあるブランチは、そのコケティッシュな容姿と物腰で、スタンリーの同僚であるミッチに思いを寄せられるようになり、プロポーズされるものの、スタンリーによって暴かれた彼女の不名誉な過去により、その婚約はなかったものになります。さらに、妊娠していたステラが出産のために家を留守にした夜に、スタンリーとブランチが最後にぶつかった結果として、物語は哀しすぎる結末へとたどりつくのでした。
 とにかく、ブランチを演じたヴィヴィアン・リーが素晴らしく哀しい。頼るべきものは男性が自分に寄せる好意(つまりは欲望)のみだったブランチが、年齢とともに美しさが磨り減っていくことに恐怖を感じ、だからこそますます男性にすがるほかなくなっていく悪循環と、抜け道のない息苦しさといったら、もう身につまされてつまされて。いや、別に誰かに依存して生きているわけでなくても、若さを失いつつある人間であれば、多かれ少なかれブランチの感じる恐怖の香りをかいだことはあるのではないでしょうか。
 わたしがそう思うのは、ブランチにまとわりついて離れなかった恐怖の正体が、本当は美を失うことやそれによって男に相手されなくなることではなく、もはや誰からも求められない自分を知ることであり、何処にも行けない自分にたどりつくことだったのではないかと思うからです。自分の居場所はどこにもない。自分が所属する役割も見つからない。自分は気づかないうちに大事なものに乗り遅れてしまった。わたしは気弱な人間なので、自分が選んだ道として納得しつつも、ふと、とても心細い気持ちにもなるのです。もちろん、この作品では、女性に処女性や性役割を強く求めていた時代性もあるのは確かですけれど。
 「私はいつも見ず知らずのかたのご親切にすがって生きてきましたの
 ブランチの、最後の台詞がたまらなく哀しい。いまの世の中で、彼女と同じ悲劇を味わう女性がどれだけいるかは怪しいけれど、ブランチの陥穽は、案外いまでもぽっかりと人生のなかに大きな口をあけているような気がしてなりません。表面的な若さや美しさだけの問題でなく、自分というものはなにかということを見つめてこなかった人間を待つひとつの代償として。

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