東京都の青少年健全育成条例について(3)

 さて、これまでにも取り上げました(その1)(その2)、「東京都青少年の健全な育成に関する条例」の改正案について、です。すでにお腹いっぱいの人も多いかもしれませんし、6月までの継続審議が決まったので、いまは中休みというところかなという気もしています。が、やはり個人的に色々と思うもやもやが出てきたので、書いておきたい。そして、このささやかなブログであっても、この問題については、不特定多数のひとの目に触れるところで書くことに意味があると思うので。
 先日、この問題に関して、BSフジにおいて規制推進派の東京都副都知事である猪瀬直樹氏と反対派である藤本由香里氏、里中満智子氏が出演した報道番組が放送されました。(リンクはこちらです)これが、6月までの継続審議が決まって、ちょっと一息つく気分だったわたしにとって、それがある種の衝撃となったのです。実際はどうであるかは、この番組をご覧いただければわかると思うのですが、出演した藤本由香里氏の印象の通り(こちらをご覧下さい)、猪瀬氏は、どうやら条例文を正確に把握することもなく、この改正を正当化する言葉を繰り返します。ご自身が批判の根拠として持参された作品そのものに正確に目を通していない状態であったらしいことも、多くの人の指摘により明らかになります。そして、それらの発言は、これまで氏がTwitterであったりブログで発言していたことと大きくずれるものでなかったのにも関わらず、わたしは自分でも意外なほどの衝撃と、恐怖を感じました。
 この改正案は、本当に通ってしまうかもしれない、と思ったのです。
 猪瀬氏は、東京の副都知事ですが、なによりもまず、作家です。それも膨大な取材量に基づいた検証を行うスタイルでないと成り立たないタイプの作品を書く作家です。それが、今回の問題に関しては、このように盲目な状態になっている。様々な意見や客観的な事実に耳を傾けたうえで、吟味してみましょうという姿勢でないのです。このひとの知見を偏見が吹き飛ばしている。それはつまり、わたしたちの声は届かないということであり、かれらは本気だということなのです。わたしは作家であるということを過大評価していたのかもしれませんし、この蒙昧をあざ笑うのは簡単です。しかし、このひとは権力と実行力と影響力を持った人間であり、その言葉は、多くの人々にとって心地よい言葉でもあります。これが恐怖でなくてなんでしょうか。
 そして、そのようなわたしの気持ちを反映したかのような言葉が、「山本弘のSF秘密基地BLOG」(URL)にありました。さすが長年トンデモさんを相手にしてきた会長は違うよ!いや、賛成派をトンデモというわけではありません。ただひとつの信念に凝り固まり自らを正義であると信じたひとに、届く言葉はもはやないのであれば、その間にある人々を味方にするしかないという現実的な言葉にはうなずくしかありません。
 また、ブログをもうひとつ紹介させて下さい。「ポンコツ家族の取り扱いマニュアル」(URL)です。真摯に考えた結果の、胸が痛くなるような切実な言葉にただただ胸をうたれました。一人でも多くの方に目を通して頂きたいと思います。
 そして、ここまでたどりつき、わたしは、思います。わたしは、どうすればいいのでしょうか。
 わたしは、考えます。わたしが声を届けたいひとに、まず、わたしは、自分がどんな人間でどのように生計を立てて生きている人間であるかを伝えます。わたしは、自分が普通に暮らす一般の市民であることを伝えます(もちろんオタクであっても普通の市民であることには変わりありません)。そしてその人間が、これまでの人生のなかで出逢った創作物にいかに心を慰められ、いまもまたそれらを大事にしているかについて伝えます。同じような人々がこの世界にどれだけたくさんいるかを伝えます。かれらはいます。あなたの前に、わたしの前に。そしていまもなお、創作によって生きていくことが出来るこどもたちの存在を伝えたいと思います。創作物は毒になることを否定はしません。しかし、なににも代え難い薬にもなることと、その区別は、公の機関によって機械的にも恣意的にもなされるようなものでないと思うことを伝えます。
 そして同時に、誤解はしていないと伝えます。猪瀬氏をはじめとする条例改正推進派が並べる、そんな大したことでないよ的な言葉に、何の実行力も安心も感じられないことを伝えます。自分は、今回の審議で通過されようとしてる条例案のみを読み、それで判断しているのだと伝えます。そしてその結果として、想像される様々なことを拒みたいと伝えます。わたしの言葉を伝えたいひとのブログやプロフィール、マニフェストを読んで感じたことを、伝えます。わたしはあなたがこういうひとであると感じます、わたしはこういう人間です、と伝えます。そして、わたしは今回の事がなければ、議会にも国政にも政党にもなんら積極的な関心を持たない怠惰な市民であったことを告白し、これからは違った視点を得られるのではないかと伝えます。
 そうやって、わたしの声で、わたしの意見を伝えたいと思います。
 もちろん、わたしがそのようなことをしたところで、その手紙は読まれないかもしれません、最初の数行を見ただけで「ああ児童ポルノの」で段ボール箱行きかもしれません。どのような状況でもマンガは生きてきたんだから、大騒ぎすることはないと思えばいいのかもしれません。ですが、わたしは、ただもう正直いって辛いから動くのです。こんなに自分が愛するものを奪われる可能性を見せつけられること、己の無力を思い知らされることしかできないのが辛いから、自分への言い訳に動くのだと思います。
 本当に、このエントリを書くことにどれだけの意味があるのか分かりません。ただ、わたしの尊敬する作家である小松左京は、自分は戦争中に闇というものを見てきたけれど、闇を照らすことが出来る知性という光がある限り、あれ自体はたいして怖いものでないと述べました。わたしはそれを信じたい。知性という光が、偏見に対抗できるものであることを信じたいから、自分が出来ると思うことをやりたいと思います。

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