「ミステリマガジン700 【海外篇】」杉江松恋編 (ハヤカワ・ミステリ文庫)



 
 ミステリ専門誌「ミステリマガジン」の創刊700号を記念したアンソロジーの海外篇です。
 一般的に、アンソロジーといえば玉石混合な場合が多いのですが、さすがに歴史ある雑誌の記念アンソロジイだけあって、とびきりの宝石粒が揃っているような内容でした。ミステリの範疇のなかにありながらも、その「謎」が及ぶ範囲は、人間の心理や行動、或いは不思議きわまりない現象にも広がっていて、様々な味が楽しめる内容となっています。どの作品もそれぞれに面白いのですが、個人的にとくに印象的だった作品について語ってみます。
憎悪の殺人」(パトリシア・ハイスミス)
 郵便局勤めの孤独な主人公。かれの、自分をいらだたせる周りの人々への嫌悪感と憎悪は、ある奇妙なかたちで表現される…という内容。1965年の作品ですが、時代を超越した人間心理というのはまさにこういうものを現すのではないか、と。現代でもきっと、コンビニのレジで、役所の窓口で、コールセンターの電話の向こう側で、この作品の主人公のように、ふつふつと他人への怒りを煮立て続けている誰かがいるのだと思います。そして、その憎悪をある方法で解消するというまさにその行為によって自分の憎悪を確認し続けた結果、かれは沼のような行き止まりの世界にはまっていったとしかわたしには思えず、その救いの無い展開には、寒気がしました。徹底的に冷えた視点で人間を見るハイスミスらしい短篇だと思います。
マニング氏の金のなる木」(ロバート・アーサー)
 横領した金を行きずりの家の植木の根元に埋めた青年。その金をしっかりと守ってくれた木とその家に住む何も知らない家族と、刑務所を出た後に計画的に親しくなっていった結果…というお話。ちょっと皮肉のスパイスも効かせつつ、勧善懲悪な内容で、読後感が良いお話でした。これもまた人間のかたちの一つの真実だと思います。
子守り」(ルース・レンデル)
 自動車が大のお気にいり、でもまだ喋ることが出来ない坊やと、かれのために雇われた子守りの娘。坊やの父親と娘の距離が近づいていくのと同時に、不穏な事故が起きる雰囲気も高まっていって…。ハッキリ言って、登場人物全員が、ずるく、甘えていて、弱い。読んでいて好感が持てる人が誰もいないという厭なお話。けれど、そんな厭な人物揃いの物語のなかでも本当に冷たく怖い誰かの姿がくっきりと現れる最後の瞬間にはぞっとさせられました。怖い話です。
フルーツ・セラー」(ジョイス・キャロル・オーツ)
 父を亡くした娘が、ある日、兄からの連絡を受ける。「ここに来たほうがいい。シャノン。いますぐに」。個人的には、この作品がベスト1です。具体的描写は皆無なのに、そこで行われたであろうある行為が、おそらくは読むひとの数だけ浮かび上がる構図になっていて、それがもう、本当に怖いです。なにが起こったのかは推察するしかないのだけど、ある日突然、なんの予想も身構えもしていなかったところにこんな事実がやってくるという怖さのリアリティがすごい。そして、もはやどうしようもなく、明らかにしたところで破滅しかないまま、父親の思い出と事実が重なっていくラストを読み終えたあとも、落とし穴にいつまでも落ち続けているような無力感が残りました。こういう後味は、この小説で無いと味わえないと思います。
 なんだかわたしが紹介すると、厭な後味系のものばかりのようですが、その他の作品には後味が良いものやユーモラスな感じがするものももちろんあります。ミステリがお好きなかたはもちろん、短篇小説がお好きなかたなら、まず読んで損は無いアンソロジーだと思います。しかし、ミステリマガジン本誌には、単行本未収録だったり、あるいは自分が知らなかったりする名作がまだまだひそんでいるのでしょうね。そう思うと、雑誌を読むことにあまり積極的でなかった自分も、ちょっとミステリマガジン本誌を手にとってみたくなりました。おすすめの一冊です。

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